カテゴリ:歴史あれこれ( 10 )

宮城の由来は?

私の住む宮城県。

「宮城ってどこ?・・・・九州?」
「いや、東北」
「・・・・じゃあ、宮城と言えば?」
「笹かま、牛タン、ずんだ餅。お土産なら、萩の月」
「あぁ、仙台か!」

こんな会話がよくあります。

そう、知名度では完全に「 宮城 < 仙台 」なのです。

仙台市もある、宮城県。

久々の歴史ネタは、県名である「宮城の由来について」です。

1871(明治4)年に実施された廃藩置県によって、独眼竜・伊達政宗が開いた
仙台藩は、仙台県となりました。

そして翌1872年、仙台県は宮城県へと改称されました。
(・・・・明治新政府内部に、仙台の名称を良しとしない人たちがいたとか)

「宮城」という県名は、仙台城(通称・青葉城)のあった「宮城郡」から取った
と言われています。(宮城郡は、奈良時代の初期に置かれた郡のひとつです)

では、この「宮城」という地名の由来をいくつか紹介しますね。

その1・塩釜神社(宮)と多賀城(城)から・・・・「宮城」

その2・屯倉(みやけ・天皇の直轄領)が転じて「みやぎ」漢字をあてて「宮城」

その3・「遠の朝廷(とおのみかど)」である多賀城の城下から・・・・「宮城」


地名としての宮城の歴史は、江戸時代始まりの仙台より約900年も!なが~い
・・・・のですが、なぜか印象が薄いようで(^^;

「宮城ってどこ?」
「あ、仙台があるところです」

なんて、ついひよってしまう宮城県人は、きっと私だけではないはず、です。
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by sakura-3rd | 2016-05-28 22:41 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(1)

角田市郷土資料館

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                牟宇姫のひな祭りを見に行ってきました。

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                伊達政宗の娘です。

                明治維新で角田のお城が壊される際に、
                地元の有力者たちへ分散された宝物。

                その中のひとつであるお雛様(伊達家の
                家紋入りであることから、牟宇姫の嫁入
                道具のひとつだと考えられている)が、
                ひな祭り前後の時期にだけ一般公開さ
                れています。     

                本藍に金糸で刺繍がほどこされた揃いの
                衣装をまとった、大きくてきれいなお顔
                のお内裏様とお雛様でした。
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by sakura-3rd | 2016-03-08 21:21 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(0)

教科書で読みくらべる~平清盛(その2)

山川出版社:詳説日本史B

<平氏政権>

 平治の乱後、清盛は後白河上皇を武力で支えて昇進をとげ、蓮華王院を造営するなどの奉仕をした結果、1167(仁安2)年には太政大臣となった。その子平重盛らの一族もみな高位高官にのぼり、勢威は並ぶものがなくなった。平氏が全盛をむかえるようになった背景には、各地での武士団の成長があった。清盛は彼らの一部を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し、畿内から瀬戸内海をへて九州までの西国一帯の武士を家人とすることに成功した。

 しかし一方で、清盛は娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ、その子の安徳天皇が即位すると外戚となった。平氏の経済的基盤は、全盛期には日本全国の約半分にのぼる知行国や500余りの荘園であり、平氏政権は著しく摂関家に似たもので、武士でありながら貴族的な性格が強かった。

 平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れた。11世紀後半以降、日本と高麗・宋とのあいだで商船の往来が活発となり、12世紀に宋が北方の女真人の建てたに圧迫されて南宋となってからは、さらにさかんに通商がおこなわれた。これに応じて清盛は、摂津の大輪田泊(現神戸市)を修築して、瀬戸内海航路の安全をはかり、宋商人の畿内への招来にもつとめて貿易を推進した。

 清盛の積極的な対外政策の結果、宋船のもたらした多くの珍宝や宋銭・書籍は、以後のわが国の文化や経済に大きな影響をあたえ、貿易の利潤は平氏政権の重要な経済的基盤ともなった。

 しかし、平氏は官職の独占を進めて支配の拡大をはかったために、排除された旧勢力から強い反発を受けた。とくに後白河法皇の近臣との対立の深まりとともに、1177(治承元)年に藤原成親・僧の俊寛らが、京都郊外の鹿ケ谷で平氏打倒をはかり、失敗する事件がおこった(鹿ケ谷の陰謀)。

 そこで清盛は1179(治承3)年、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、関白以下多数の貴族の官職をうばって処罰するという強圧的手段で国家機構をほとんど手中におさめ、政界の主導権をにぎった。ここに清盛の権力集中は完成するかにみえたが、こうした権力の独占はかえって院や貴族、寺社、源氏などの反対勢力の結集をうながし、平氏の没落をはやめる結果となった。



三省堂:日本史B

<平氏政権の成立>

 平治の乱後、平氏は院との関係を強め、政界における勢力を拡大した。1167(仁安2)年、清盛は武士としてはじめて太政大臣になり、娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮とし、その子の安徳天皇の外祖父として権力をふるうにいたった。以後、一族の子弟を高位・高官につけ、検非違使を支配下において警察権を掌握するなど全盛をきわめる基盤をきずいた。

 また清盛は、多くの知行国と500余の荘園を獲得して財政基盤を確保するとともに、一族や家人をその国司や荘官に任命して国衙や在地の武士団とのむすびつきを強め、地方支配をおしすすめた。政権としても荘園領主としても権勢をほこるようになって、貴族勢力をしのぐほどとなった。さらに清盛は忠盛と同じように日宋貿易にも力をそそいだ。11世紀後半以後も高麗や宋(南宋)との間で活発な民間貿易が行われていたが、清盛はその実情を生かし、北方の金に追われて南に移っていた宋商人の招来につとめた。そのため、摂津国の大輪田泊(いまの神戸港西部)を修復するなど瀬戸内海航路の安全をはかった。こうした日宋貿易による宋銭(銅銭)輸入などの利潤は平氏政権の重要な財源となった。平氏政権は、政治的地位や経済的基盤において貴族的な性格をのこしていた。しかし、畿内・近国や西国の武士団との間に主従関係をむすび、それらを権力の基盤にしている点で次の鎌倉幕府による武家政権と似た性格をあわせもっていた。
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by sakura-3rd | 2012-02-20 19:22 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(0)

教科書で読みくらべる~平清盛(その1)

山川出版社:詳説日本史Bより

<保元・平治の乱>

 武家の棟梁としての源氏が、東国に勢力を広げると、東国武士団のなかには源義家に土地を寄進して保護を求めるものがふえたため、朝廷があわてて寄進を禁止したほどである。義家の後、一族の内紛により勢力がおとろえた源氏にかわって院と結んで発展したのが、桓武平氏のうちで伊勢・伊賀を地盤とする伊勢平氏である。なかでも平正盛は、源義家の子で出雲で反乱をおこした源義親を討ち、正盛の子の忠盛は瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得て、武士としても院近臣としても重く用いられるようになった。その平氏の勢力をさらに飛躍的にのばしたのが、忠盛の子の平清盛である。

 1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去するとまもなく、かねて皇位継承をめぐり法皇と対立していた崇徳上皇は、摂関家の継承をめざして兄の藤原忠通と争っていた左大臣藤原頼長と結んで、源為義・平忠正らの武士を集めた。これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いでいた後白河天皇は、忠通や近臣の藤原通憲(信西)の進言により、平清盛や源義朝らの武士を動員し、上皇方を攻撃してやぶった。その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、為義らは処刑された(保元の乱)。

 その後、院政をはじめた後白河上皇の近臣間の対立から、1159(平治元)年には、清盛と結ぶ通憲に反感をいだいた近臣の一人藤原信頼が源義朝と結んで兵をあげ、通憲は自殺した。だが、武力にまさる清盛によって信頼や義朝は滅ぼされ、義朝の子の頼朝は伊豆に流された(平治の乱)。

 この二つの乱を通じて、動員された兵士の数はわずかであったが、貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての清盛の地位と権力は急速に高まった。



三省堂:日本史Bより

<保元・平治の乱>

 12世紀なかば、天皇家や摂関家の内部で皇位や「氏の長者」の地位をめぐる対立がおこった。天皇家では鳥羽法皇と崇徳上皇が、摂関家では関白藤原忠通と左大臣藤原頼長がそれぞれ対立したが、やがて、後白河天皇と崇徳上皇の不和に忠通・頼長の兄弟争いが結びついて、中央政界を二分するはげしい争いとなっていった。そして、1156(保元元)年に鳥羽法皇が亡くなると、崇徳上皇は源為義・源為朝・平忠正らの武士を味方にして天皇を討とうとしたが、源義朝・平清盛ら後白河天皇側の攻撃にあって敗退した(保元の乱)。

 乱後、後白河上皇の信任が厚い院の近臣の藤原通憲(信西)が、保元の乱のさいに助勢をたのんだ平清盛とむすんで権勢をほこった。これに不満をもつ同じ院の近臣の藤原信頼は、清盛と対立していた源義朝とむすび、1159(平治元)年、清盛が熊野参詣に出た留守をねらって兵をあげ、通憲を自殺に追いこみ、上皇を幽閉した。しかし、清盛の反撃にあって敗北し、義朝の子源頼朝は伊豆に流され、源氏の勢力が一時おとろえることになった(平治の乱)。

 保元の乱で貴族の争いに利用された武士は、平治の乱では彼らの対立が戦乱の原因の一つになるほどとなった。この結果、武士はいちだんと政治力を高め、武家政権樹立への道が開かれることになった。
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by sakura-3rd | 2011-12-26 21:18 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(0)

仙台歴史絵巻

    「グラウンド・ゼロ」を見に行った仙台国際センターの廊下にて。

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by sakura-3rd | 2008-10-13 21:44 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(0)

仙台・飯倉氏講演会

d0137604_12142833.jpg☆ 2008年4月5日(土) ☆

 仙台市博物館 に行って来ました。

 友の会総会後、仙台在住の飯倉晴武氏(元宮内庁勤務、『日本人のしきたり』著者)による講演会「金沢文庫の成立と収蔵文書の魅力」が行われました。

 飯倉氏は日本中世史の専門家で、金沢文庫の書籍調査にも加わっていらした方です。金沢文庫は現在進行形で文書の調査と研究が進められているので、この講演会で面白いお話がきけるのでは・・・・と期待して行ったのですが、金沢文庫に関する歴史概論で時間切れとなってしまいました。(チョット残念)

 今週末25日から、特別展「武家文化の精華~金沢文庫・称名寺の名宝~」が開催されます。関連した講演会やミュージアムトークも企画されているようなので、生徒にも宣伝しつつ、観に行きたいと思います。
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by sakura-3rd | 2008-04-21 06:16 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(0)

東京・江戸博常設展

☆ 2008年3月25日(火) ☆

 篤姫展を諦めた後、久しぶりに常設展を見て来ました。
 江戸の世界、楽しかったです♪

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 江戸城本丸御殿の復元模型です。
 撮影OKの展示物の前ではみんな携帯やデジカメをかまえています。
 江戸の町の撮影旅行、と洒落込んでみるのも一興です。

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 駿河町三越前です。
 通りに面した側では、暖簾が上がると店内の様子がうかがえます。

 他にも、菱垣廻船や長屋での出産の様子など、撮影ポイントは盛り沢山。
ナイスショットを狙ってみましょう~♪

 また、体験コーナーもいろいろあります。
 纏を持ち上げようとしている小学生、「千両箱を持ち上げてみよう!」の前で盛り上がっていた外国人のグループ・・・・みんな楽しそうでした。

 江戸の世界、まだまだ興味はつきそうにありません。

おまけ
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by sakura-3rd | 2008-04-06 21:55 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(2)

東京・天璋院篤姫展

d0137604_815754.jpg☆ 2008年3月25日(火) ☆

 江戸東京博物館 に行って来ました。

 ぽかぽか陽気に桜がほころび、春休みに入った小中学生が走り回る・・・・江戸博。
 篤姫展の会場は満員電車さながらの人・人・人。どこからこんなに来たんだ!と、自分のことは棚に上げて腹を立ててしまうほど、人の洪水でした。(苦笑)

 1階のチケット売り場はドアの外まで人が並び、こっちの方が早いかと期待して上がった3階も、警備の人が忙しく動き回って行列整備中。
 ここまでくると、「さすが篤姫様!ってことですかねぇ」と、笑うしかありませんでした。

 とりあえず、第一陣の波が引くまで、ミュージアムショップや映像ホールで遊ぶことにしました。

 東海道五十三次クイズすごろくに、きたさんチームのひとりとして参加しましたが、これ、とっても面白かったです♪ 画面に映し出される東海道の映像を見ながら旅気分。スタートは勿論、日本橋。道中で出題されるクイズの答えを、座席の右側についているボタンを押して入力すると、正解者の分だけチームのコマが進められ、ゴールの京を目指すという趣向。答えの選択肢もなかなか考えられていて(このあたり先生目線か?笑)、楽しみながら「へぇ~」と学べる内容でした。画面に夢中になっていたせいで気がつかなかったのですが、進むペースに合わせて案内役のお姉さんが何か操作していたのかなぁ・・・・思ったよりも早くゴールに到着してしまいました。(こんなことなら正解ばかり押さなきゃ良かった、とちょっと後悔したのは、三面パネルに自分の姿が映し出された時でした)

 ちょっとの間に江戸から京まで東海道の旅をして、再びチケット売り場へ。
 ・・・・ゲッ・・・・

 TDRならファストパスがあるけれど、前売り券の存在価値をこれほど実感したことはありませんでした。時計をチェックして、チケット購入までの所要時間と観覧時間を試算
         ↓
「篤姫様、これではとても前には進めません。恥でもいいです。私は引き返させていただきます。ご縁がありましたら、いつかどこかでお目にかかりましょう。ごきげんよう」

 人ごみには適応できない田舎者です。根性なしと言われても・・・・あれは無理です。

 江戸博のスタッフの皆様、楽しみにしている特別展をゆっくりと観覧できるように、TDRのファストパスのように時間と人をうまくコントロールできるような対策をお願いします。
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by sakura-3rd | 2008-04-05 10:09 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(3)

篤姫の故郷のかたみ

 股旅ねこさんの 旅立ち 前夜 へのTBです。


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                 「薩州桜島真景図」

 現在、江戸東京博物館で開催中の天璋院篤姫展に出品されていました。
 絵師名は記載がなく、徳川記念館蔵となっています。多分、これでは?
 次週の大河ドラマでご確認のほどを・・・・
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by sakura-3rd | 2008-03-18 01:26 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(2)

仙台・伊達家の雛道具

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☆ 2008年3月2日(日) ☆

 仙台市博物館 に行って来ました。

 春の常設展で初公開されている、伊達家に嫁いだ紀伊徳川藩のお姫様の
雛道具がお目当てでした。展示室の奥、源氏物語絵巻の屏風の前に鎮座し
た、葵の御紋が入った豪華な雛道具に、思わずため息が出ました。

 黒檀や象牙など細部にまで贅を尽くした三棚(厨子・黒・書)と三面(碁盤・
双六盤・将棋盤)、飾っておくだけではもったいないお道具ばかりでした。
嫁入り道具は実家の権勢を誇示するもの・・・・葵の御紋は伊達じゃない!?

 つやつやした漆塗りの行器(ほかい・中央の写真)は、色褪せた朱色の紐
だけが作られた時代を物語っているようでした。

 しかしこのように立派な雛道具が残っているのに、お雛人形だけが発見さ
れていないそうです。おそらく当時最高の享保雛だったと思われるのですが。
いつかこの雛道具と一緒に展示される日がくるといいなぁ、と思いつつ。


 
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by sakura-3rd | 2008-03-10 21:44 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(2)