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グラウンド・ゼロ

☆ 2008年10月12日(日) ☆

 仙台国際センターで開催された、第23回全国保険医団体連合会医療研究集会での ジョー・オダネル写真展「グラウンド・ゼロ」 を見てきました。

 ” My God, what have we done ? ”

 1階の展示室2つを使って、モノクロのパネルがずらーっと並べられた写真展は、ジョー・オダネル氏のこの言葉で始まっていました。

<日本へ向かう太平洋上での船上ミサ>
 彼らは何を祈っていたのでしょうか。
 ジョー・オダネルは、真珠湾攻撃で、日本人に対する激しい憎しみと怒りを感じ、海兵隊へ志願したといいます。原爆が投下され、降伏した日本に向かう船上でのミサ。そこに写っているアメリカ兵たちの顔がとても穏やかで、なんだか意外な感じがしました。

<ドーリトル攻撃隊の調査>
 1945年9月3日、佐世保に上陸した彼らの任務のひとつが、消息を絶ったドーリトル攻撃隊の調査でした。そして、白木を十字架に組んで作られていた墓を発見し、ジョー・オダネルはその写真を撮っています。「そこに書いてある言葉はわからなかったが、日本人の敬意を感じた。」

<小学校の教室>
 壊れた窓の向こうには瓦礫と化した街が広がっている、小学校の教室で撮られた写真。そこには、手を膝に乗せ背筋をのばし、教壇に立つ先生を一心にみつめている子ども達の姿がありました。教科書もノートも何もない机、先生は一体どんな話をしていたのでしょうか。
 私はあんな風に教室中の生徒からみつめられたことはありません。それは、多分、幸せなことなんでしょう・・・・。

<ボーイ>
 原爆投下後の街は、ジープが走れないほどに破壊されていました。ジョー・オダネルは撮影の足として、タバコと引きかえに馬を手に入れました。「ボーイ」と名づけられたその馬は、とてもジョーになついていたようでした。

<赤い背中の少年>
 長崎の救護所のひとつで出会った、原爆の爆風によって大火傷を負った少年。ジョーは、真っ赤に焼け爛れた背中にたかっているハエやウジを手で払いのけて、写真を撮ったそうです。パネルはモノクロで、その生々しさがダイレクトに伝わってくることはありませんでしたが、あの救護所でジョーがかいだ臭い、彼は生涯忘れることができなかったといいます。
 トランクの中の写真を公開して、日本にやってきたジョーは、死んだとばかり思っていた赤い背中の少年・谷口さんが生きていた事を知り、とても驚き、そしてとても喜んだそうです。

<晴れ着の少女>
 瓦礫の街にも七五三の季節がめぐってきました。見事な晴れ着の少女は、まるで背景を合成したかのような雰囲気で立っています。しかし、その少女にもたしかに戦争の傷跡が残されていました。
 連合軍機の音が聞こえてくると、母親たちは大慌てで子ども達の耳に綿をつめたそうです。しかし、この少女の母親は間に合わなかった・・・・晴れ着の少女は、爆音によって鼓膜が破れ、耳が聞こえなくなっていたのでした。

<教会の玄関>
 アメリカ人兵士のブーツと日本人の草履・下駄が入り混じって脱いでありました。ほんの少し前まで敵味方に別れて戦っていた両国の人たちが、同じ教会で何を思い、何を祈っていたのでしょうか。

<偽大砲>
 東京から仙台へ向かう海岸線では、コンクリートの電柱を岩の陰や木の陰から突き立て、大砲のように見せかけていました。こんなことまでして戦い続けるしかなかったのでしょうか・・・・憐れに思うとともに、腹立たしくてたまりませんでした。

<原爆後の長崎>
 展示室前に大きな長崎のパネルが立てられていました。研究会に参加している中には長崎にゆかりのある先生方もいらっしゃったようで、瓦礫のパネルを見ながら、「この辺に○○が建ってますよ」と、今の長崎の街と重ね合わせて話している声も聞こえました。

 最後に掲げられていた、ジョー・オダネル氏からのメッセージです。

 ” PEACE IS THE FUTURE.
   WITHOUT PEACE THERE WILL BE NO FUTURE. ”




 私は写真家であり、1945年の悲惨な原爆の犠牲者であり、また生き証人でもあります。原爆の体験をして以来何年もずっと、広島と長崎で起きた悪夢のような光景の大部分を忘れようとしました。それらの光景はとても恐ろしく精神的に悩まされるほどでした。だからそれらを忘れて元の生活に慣れなければなりませんでした。それで、日本から持ってきたネガは全てトランクに入れ、目の届かない所に保管してしまいました。同様に、日本での記憶も封じこめておきました。45年間ずっと・・・・。

 ずっと後に、放射能を直接浴びたことで発見された私の白血病は、医学的に治療できなかったので、1968年ホワイトハウスを退職し、テネシー州のナッシュビルに転居しました。

 結局、私は1945年に目撃した原爆の恐怖からは、決して逃れられないだろうということに気づきました。私はそれからの現実を直視しようと決心しました。トランクのカギをはずし、もう一度、死んだ人、死にかけた人、負傷した人でいっぱいの悲惨な情景を見ました。これらの写真は全人類にみてもらい、この悲惨な情景は私の出来るかぎりの力で、世界の平和を導き、核戦争を終わらせるために、良い方向に役立たせるようにしなければならないと知りました。

 それで私はこの写真展を日本、アメリカ、ヨーロッパ各地で開催し、「Japan 1945・・・Images from the trank.」という本を書きました。そして何百回もの講演をし、会合に参加し、数えきれないくらいの人達に私の体験を話してきました。今年の9月に日本から帰国した時、日本に原爆が投下されて50周年の記念日は、とうとう過ぎ去ったのだと思いました。

 しかし、それで終わりというわけではありません。私は今や自分が多くの生命を奪った恐ろしいあのキノコ雲と同じような存在であると思っています。かなり見た目には違うでしょうが・・・・。というのは、私のような小さい力でも、影響を与える範囲が広いという点で、よく似ているだろうと思います。原爆の写真展を世界中で行い続けることで、全人類に対して平和のメッセージを送ることができるということです。そして私たちの世代が死んでも長くこのメッセージは受け継がれていかねばならないと思います。なぜなら、このメッセージを受け取るべき、まだ生まれていない子供たちがいるからです。

 それで、私が生きている限り、私の体験を聞きたいというすべての人に読んでもらおうと思います。なぜなら、1945年の8月の4日間に起きたあの恐ろしい出来事を二度と繰り返さないために、私たちの過去を思い出してもらえるよう、私たちができる限りの事をしなければならないからです。

 未来の平和のために。

                   ジョー・オダネル 『トランクの中の日本』 より

by sakura-3rd | 2008-11-02 13:16 | 杜の都