教科書で読みくらべる~平清盛(その2)

山川出版社:詳説日本史B

<平氏政権>

 平治の乱後、清盛は後白河上皇を武力で支えて昇進をとげ、蓮華王院を造営するなどの奉仕をした結果、1167(仁安2)年には太政大臣となった。その子平重盛らの一族もみな高位高官にのぼり、勢威は並ぶものがなくなった。平氏が全盛をむかえるようになった背景には、各地での武士団の成長があった。清盛は彼らの一部を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し、畿内から瀬戸内海をへて九州までの西国一帯の武士を家人とすることに成功した。

 しかし一方で、清盛は娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ、その子の安徳天皇が即位すると外戚となった。平氏の経済的基盤は、全盛期には日本全国の約半分にのぼる知行国や500余りの荘園であり、平氏政権は著しく摂関家に似たもので、武士でありながら貴族的な性格が強かった。

 平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れた。11世紀後半以降、日本と高麗・宋とのあいだで商船の往来が活発となり、12世紀に宋が北方の女真人の建てたに圧迫されて南宋となってからは、さらにさかんに通商がおこなわれた。これに応じて清盛は、摂津の大輪田泊(現神戸市)を修築して、瀬戸内海航路の安全をはかり、宋商人の畿内への招来にもつとめて貿易を推進した。

 清盛の積極的な対外政策の結果、宋船のもたらした多くの珍宝や宋銭・書籍は、以後のわが国の文化や経済に大きな影響をあたえ、貿易の利潤は平氏政権の重要な経済的基盤ともなった。

 しかし、平氏は官職の独占を進めて支配の拡大をはかったために、排除された旧勢力から強い反発を受けた。とくに後白河法皇の近臣との対立の深まりとともに、1177(治承元)年に藤原成親・僧の俊寛らが、京都郊外の鹿ケ谷で平氏打倒をはかり、失敗する事件がおこった(鹿ケ谷の陰謀)。

 そこで清盛は1179(治承3)年、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、関白以下多数の貴族の官職をうばって処罰するという強圧的手段で国家機構をほとんど手中におさめ、政界の主導権をにぎった。ここに清盛の権力集中は完成するかにみえたが、こうした権力の独占はかえって院や貴族、寺社、源氏などの反対勢力の結集をうながし、平氏の没落をはやめる結果となった。



三省堂:日本史B

<平氏政権の成立>

 平治の乱後、平氏は院との関係を強め、政界における勢力を拡大した。1167(仁安2)年、清盛は武士としてはじめて太政大臣になり、娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮とし、その子の安徳天皇の外祖父として権力をふるうにいたった。以後、一族の子弟を高位・高官につけ、検非違使を支配下において警察権を掌握するなど全盛をきわめる基盤をきずいた。

 また清盛は、多くの知行国と500余の荘園を獲得して財政基盤を確保するとともに、一族や家人をその国司や荘官に任命して国衙や在地の武士団とのむすびつきを強め、地方支配をおしすすめた。政権としても荘園領主としても権勢をほこるようになって、貴族勢力をしのぐほどとなった。さらに清盛は忠盛と同じように日宋貿易にも力をそそいだ。11世紀後半以後も高麗や宋(南宋)との間で活発な民間貿易が行われていたが、清盛はその実情を生かし、北方の金に追われて南に移っていた宋商人の招来につとめた。そのため、摂津国の大輪田泊(いまの神戸港西部)を修復するなど瀬戸内海航路の安全をはかった。こうした日宋貿易による宋銭(銅銭)輸入などの利潤は平氏政権の重要な財源となった。平氏政権は、政治的地位や経済的基盤において貴族的な性格をのこしていた。しかし、畿内・近国や西国の武士団との間に主従関係をむすび、それらを権力の基盤にしている点で次の鎌倉幕府による武家政権と似た性格をあわせもっていた。
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by sakura-3rd | 2012-02-20 19:22 | 歴史あれこれ | Trackback | Comments(0)

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